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メディアに内包される世界。

メディアやアートについて学ぶ(予定の)大学生がメディアやアートについて書いていきます。人工知能/AIとかにも言及していきたい。強迫性障害の経験あり。多分生涯治療中。

森友学園の教育から考える学習の本質【中身のある学習を】

大学生 ニュース

ここ最近は連日のように森友学園関連のニュースを目にします。教育に対する姿勢や、資金周りのことなど問題は正に山積みという感じですが、この記事では森友学園から考えさせられる教育の本質について書いていこうと思います。

連日の報道

今日この記事を書く前にも、稲田朋美防衛大臣が、森友学園に関する裁判に出廷していたかどうかに対しての、自身の国会答弁の真偽について糾弾され、結果として訂正し謝罪するということがありました。当初は国有地の売買に関して、きちんとした手順が踏まれていたかが問題でしたが、昭恵夫人や鴻池氏の事務所への働きかけなど、問題は山積してきました。

”暗唱”に対する違和感

僕が森友学園に関して、教育機関として違和感を覚えたのは、やはり未就学児童に対して教育勅語等の”暗唱”をさせるということです。教育勅語の中身についての善し悪しを議論するつもりはありません。僕が言いたいのは、”暗唱”意義についてです。

”暗唱”する目的とは

僕自身、おそらく人生で一番最初に暗唱らしい暗唱をしたのは、九九を覚えるときだと思います。小学校の頃に公文に通っていたのですが、教室での学習を終えて帰る時に、先生に一つ段(1の段から9の段のどれか)を与えてもらって、それをストップウォッチで測りながら、いかに早く言うかというのを毎日やっていました。この九九を覚えるための暗唱というのは、単純な処理能力を上げるための暗唱です。つまり、掛け算というのは算数・数学をやっていく上で基礎になるもので、基礎力を徹底的に向上させている状態です。掛け算というのは、意味合いをそれほど深く考えるものではありませんから、これ自体が目的となっていて至極当然です。しかし教育勅語に関しては全くこれとは性質が異なります。

意義を考えた学習

教育勅語というのは、先人たちの思想が詰まっている、それ自体を考えることに意義がある文章です。それは掛け算とは全く異なり、それ自体を暗唱するだけでは何の意味もありません。その文章に含まれている意義を深く考え、自分なりに咀嚼していくことにこそ意味があります。これは推測に過ぎませんが、あの幼稚園児たちは、教育勅語のしっかりとした意義を捉えられていないと思います。それでは学習として全く意味のないものになってしまいます。

中身のある学習を

字面を追っているだけでは中身のある学習にはなりません。これは受験勉強には必ずしも当てはまらないかもしれませんが、切羽詰まっていない限りは、探究心を尖らせて、意義を考えていく学習をおすすめします。

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