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リア充ってもはやSNSが無いと成立しないかも…てかリア充って何?

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ホントは勉強したりしなきゃいけないんだけど、ついつい見ちゃうTwitter

そしてそこには「彼女とデートに行きました婉曲アピール」みたいなリア充的な投稿がいっぱいあって、羨ましいなあ、とかなるんですよね。

もしくはLINEもそうですけど、今回の話は特にTwitterに関係するかな。というのも今日は僕の体験談なんですけど、もしかしたら同じ経験したことある人いるかも。

SNSを媒介とした羨望

紙で日記をつけてる人って今ではかなり少ないと思いますが、「今日は◯◯をした」っていうデイログとか、それに近いことはほとんどの人がTwitterを通してやっていると思います。

で、例えば彼氏・彼女とデートに行った話って、普段の会話の中でするとちょっと鼻についちゃったり、そもそもそういう話をしづらかったりする。

でもTwitterなら、割りと気兼ねなく簡単に投稿しちゃうと思うんです。

結果的に、「羨ましさ」っていうのはほとんどインターネット上で生まれる。リアルな会話で聞くよりも、SNS上の方がよっぽど沢山の情報が載っているから。

「うわー水族館行ったんだ」とか「誕生日祝ってんなあ」とか。その話を次回に本人に会った時に掘り下げることはあるとしても、まずSNSを見た時点で、一度は羨望が発生しているはず。

ローカルな記憶は足が短い

めっちゃ比喩っぽくそれっぽい見出しにしましたけど要は、SNS上の羨望の対象になるような写真を、自分のフォルダに保存して見てみるとそうでもない」っていう状態になるんです。

ちょっとイケてる系の女子グループとか大体は一つの学年に一個か二個はあると思うんですけど、そういう人たちが、食事に行った風景をSNSにアップしたとする。

その写真を見て僕は、「うわー楽しそうだな」とか「青春だなー」とか思うわけです。

で、この感情っていうのは、意外と何回見てもそんなに変わらない。そのアカウントにはその投稿がずっと残っているわけですから何回でも見れますよね。でも何回見ても羨ましさっていうのはあんまり変わらないんです。

ただ、この写真を一度自分のフォルダに保存すると事態が急変します。

保存した写真を眺めた時こんな感情が芽生えました。

「あれ、さっきのうらやましかった感じはどこいったんだろ」って。

ローカルフォルダに保存した途端にその写真の持つリア充度が急降下したんです。なんか急に”そうでもない感”が出てきた。

で自分なりにこの理由を考えてみたわけです。

流れの中にあってこそ価値が生まれる

SNS上にはその人のそれまでの生活の概観が表れています。たとえば現在彼氏がいるとしたら、彼氏ができる前の生活もそこに書き記されているんです。

このような一連の流れの中にあってこそ、羨望の対象になるような写真は、それ自体でありうるんだと思います。

つまりそのひとの”そうでもない(平坦な)日常”も書かれている中に、不意に幸せ度の高い投稿が現れる。その突然・意外性が羨望につながっているんだと思います。

でもそれをローカルフォルダに保存してしまったら?流れは見えなくなり、ただその投稿だけが目につく。

つまりその投稿が”相対的に”どれほど幸せだったのかがわからなくなってしまう。

このような理由から、僕の体験が生まれたんだと思います。

インターネットを介してでしか会話できない

私たちはもはや、インターネットを介してしかコミュニケーションできないのかもしれません。多少言いすぎな気もしなくはないですが、でも原理的にはそれに近い状態にあります。

たとえば先にも例に挙げたように、私たちの会話のよくあるきっかけの一つに、「それまでのSNSの投稿を掘り下げる」というものがあると思います。

これも間接的には、インターネット無くしては成り立たない構図です。

僕の持っているイメージとしては、パラレルワールドがインターネット上に出来上がる」というものです。

ありとあらゆるものがデジタルに置き換えられて、やがて私たちはインターネット上で、あるいは仮想空間で生活していくのかもしれない。

私たちが現在この現実世界で扱っているうちのほぼすべてのモノがデータになってインターネット上でも同じように、あるいはもっとスマートに扱われる。つまりそこには現実と同じような世界がもう一つ存在することになる。

生存のための最低限の食事や睡眠を確保して、あとは仮想空間で生活しようと思えば出来なくはありません。

リア充って何?(おまけ)

現代美術家会田誠さんが以前ツイッターでこんな投稿をしていました。

リア充という言葉を再定義しようと試みている。投げやりな言い方をすると、アーティストっぽい切り口のアセスメントですよね。

会田誠さんが定義しようとしていることは、僕がさっき言った時代の流れとは対立するもののような気がします。リアルワールドが充実しすぎていて、仮想世界に接続する暇がなかった。

でも僕はもはや仮想世界を通じてしか羨望を持てない人間になりつつあるので(少なくとも僕個人としては)この会田誠さんの意味での”リア充”は使う機会がなさそうです。

ではまた。

こちらもどうぞ 

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